コンピテンシー

本来の意味 

 「コンピテンシー」という用語はもともと、アメリカのマクレランドが国務省の依頼を受け知能レベルが同等の外交官に業績の差が生じるのはなぜかということを明らかにしたのが始まりで、人間の潜在的な能力に対して、結果にダイレクトに結びつく行動能力のことを指している。それ故この概念はビジネス界で、社員の能力を把握する際の重要な観点となってきた経緯がある。我が国では、近年能力成果主義を導入し、学歴や知能レベルではなく、成果に結びつく具体的な行動能力を採用・評価の基準とするようになって注目され始めた概念である。  

 まあ簡単にいうと、「頭のいい人」が「できる人」ではない、ということはだいたい誰でも気がついていて、じゃあ「本当にできる人」をどうやって発見したり育成したりするのか、といったときに、「本当にできる人」がどのようなことをする傾向にあるのかを捉えて明らかにしなければならない。そこで明らかになった行動特性が、「コンピテンシー」だと考えるとわかりやすい。厳密にいえば職種によって内容が違うのが当たり前なのだけれども、もっと一般化した基準でも捉えられると思うので、そういう基準で捉えたときに、「できる人の習慣」とか「成功する人の習慣」などという書籍になって出てきているのも「コンピテンシー」なのだと考えられる。

 

「キー・コンピテンシー」という概念

 能力成果主義化する社会の流れの中で、学校教育における学習内容や学習方法もコンピテンシーに近いところを言語化したものが多くなってきていたが、 OECD経済協力開発機構)のDeSeCo(コンピテンシーの定義と選択に関するプロジェクト)から「キーコンピテンシー」という概念として提示されたことをきっかけに、日本の学校教育においても注目されているところである。  「キー・コンピテンシー」とは「個人の人生にわたる根元的な学習の力」と定義されている。さっきの話の続きをすると、「できる人」の枠組みを「よく生きられる人」に拡大するとどんな行動をする人なのかという話になる。 具体的に提示されているのは以下の三点。

①自律的に活動する力

②道具(ここでの道具は、言葉、知識、コンピュータに代表される)を相互作用的に用いる力

③異質な集団で交流する力  

 最近文部科学省が提案してくる学習内容と重ね合わせてみると、①が自己学習力だったり、②が操作的な学習の重視であったり、③がコミュニケーション能力の育成であったりと、結構重なっているように思う。  

 もしかしたら「生きる力」という概念も「キー・コンピテンシー」のことを指しているのかもしれないと考えたりもする。 まあいずれにせよ、この概念が注目されているのには、これまで述べてきたように日本社会が能力成果主義社会に移行してきていることとも深く関係しているのだけれども、話を教育界に限定すると、OECDと聞くとやっぱりPISAですか、ということになるわけで、今話題になっている、新しい学習指導要領でも重視されているPISAの学力調査はこの考え方に強く影響を受けている。それゆえに日本の教育界でもこの概念に注目していると考える方がわかりやすい。

 

状況の変化に適応して

 だいたい学校で学ぶ内容は、具体的な状況を抜いて学習を構想することが多いのだけれども、そこで見失われてきたのが、状況の変化に適応する能力であったり、多様な状況に適応する能力であったりと、実は非常に現実的な学習場面を設定しないと習得できないような能力であった。これらの能力の根底にはもちろん状況判断力があるのだが、この能力は現行のテスト法では捉えることができない。  教員採用試験の勉強を思い浮かべると、教職教養や一般教養などは基本的な知識ではあるが、それはあくまで必要な状況に応じて、効果的に用いることができなければ何の意味もない。だからマークシートや一問一答式では、知っていても使えるかどうかは捉えることができないということだ。  だから最近では、授業をさせてみたり、ケースワークをしてみたりする。これが今話していることとぴったり当てはまる。  

 知識をあれだけ詰め込んでおきながら、社会に出るといきなり、それらを実際の多様な状況の中で使えるかどうかということが求められる。多くの人が学校で勉強したことは社会に出て使えないと嘆くのもこの点によるところが大きい。それなら中学生くらいから少し知識を操作させる学習を織り交ぜてみようか、ということになる。 しかし大切なのは、見出しにもしたが状況判断と状況に適応させて結果を出すというファジーな操作力なのであって、これはなかなか学校では身につけられない。職種によって遭遇する状況が大きく異なるからだ。ゆえに「キー」ということばをつけて比較適度の職種にでも共通するような一般的な行動特性を抽出して言語化せざるを得ないのである。