習熟

習熟とは 

 「習熟」という概念は古くからある。熟練などという概念に近い言葉であると考えられる。中内敏夫は『学力と評価の理論』のなかで、学力を「範疇」「知識」「習熟」という三つの概念で捉えようとしたが、そもそも学力形成過程を意識するようなしないような状況で平面的に、元々多面的な学力のいくつかの面に概念を与えたに過ぎない。だから、私自身いわんとしていることは分からないではないが、それが学力のすべてであるとか、仮にもその三つを恣意的にとりだしてくるのかその理由が分からない。 どちらかというと、「慣れてくる」とか「使い慣れてくる」といった状態に近い時間軸上で学力形成をとらえた際の非常に完成に近い状態を指しているのではないかと思う。 少し乱暴な表現を続けると、誰でも習いはじめの頃は、習ったことを遂行することに意識を向けている。車の運転なんかそうだろう。ギアやアクセルといった一つ一つの操作に意識を向けている。だから全体としてスムーズではないし、複雑な状況の中ではなかなかうまくいかないことも多い。それ以上に時間がかかる。 ひっくり返していうと、「習熟」とは「自動化され」「状況に応じて調整ができ」「時間的にも短縮された」状態を指している。 学力形成論で問題となるのはそこからで、習ったばかりの知識や技能をどういう学習を積み重ねていけば「習熟」した状態になるのかということである。これは対象となる力によって道筋が異なっている。その上学習者一人一人の学び方の違いが如実に影響を及ぼすので、教師の観察眼と対応力や構想力が求められるのである。 先の学習指導要領で重視された基礎と発展の発展の方の学習構想はこういったことを考えながら進めていきたい。   

 

自動化された後

 なにやら「習熟」までのプロセスを学習として構想するのだって今行われているかどうか疑わしい教室はたくさんあるにもかかわらず、その先がまだあるのだから、教師は長いスパンで学習者の学力の形成過程を観察していかなければならない。「習熟」とはある意味で自動化された状態を指している。つまり、書字力の安定に比例して小学校の低学年でも一字一字音読していた状態が連続してスムーズに音読できる状態へと移行する。これは一字一字目で追って音に変えていくという作業が自動化されていくプロセスである。 この後、何が残っているのかと疑問に思うかも知れないが、例えば中学年にならなくても、物語文などの音読で自分なりの判断で色々と工夫した読み方をする子が出てくる。これは、いったん自動化された能力が、様々な複雑な状況に対して自分なりの状況判断を行い、認識した状況に適合したり、効果を及ぼすと推測できるような状態に持っていくために、身につけた能力を変形している状態である。 つまり、「使いなさい」といわれてできる状態と自分で状況を判断して必要に応じて使いこなす状態とがあるということである。 テストといわれる評価方法では残念ながらここまでの段階は捉えられない。

 

習熟の内実と方向性

 

 

 

 評価論の立場から考えてみると、習熟の内実をどのように捉えるのかによって、学習や評価において重視する学力の定着の仕方も異なってくるし、評価方法も異なりを見せる。この異なりが潜在的には学習の方向性と相通ずるものがあることはいうまでもない。 ある一つの能力を使いこなせているかどうか評価しようとすると二つの方法がある。 時間の短縮に力点を置くと、たくさんの問題をいかに早く解くことができるかという方法を採る。これはテスト法。 もう一つは、自動化されていることに力点を置いて、非常に複雑な問題を解かせ改めてその解法のルートを説明させてみるか、一つのパフォーマンスを観察法で捉えるか、自己評価法で記述させるかして解釈を加えていくしかない。 学力論上では、上の二つは「自動化」と「時間の短縮」といってしまえばなにやら両方重要で並立可能な観点として理解しやすいのだが、評価論上では後者をとらえるためにはものすごい労力を必要としてしまう。 ゆえに特に教育実践上では、「習熟」が前者に無意識に偏る場合がよく見られる。そういう状況でドリルばっかりやって早さを問題としている人をよく見るが、それでもいいものとそれではいけないものとがある。漢字の習得などもそういった例の一つであろう。